スマートフォンでご覧いただいている方へ
校舎写真上にあるをタップするとリストが表示されます
文字
背景
行間
3 書体について簡単な歴史と特徴
漢字には、五つの書体があります。つまり、篆書・隷書・草書・行書・楷書の5つです。
これは、時代とともに変化した書体を5つの形に分類したものです。歴史的に古いものから簡単に説明しましょう。
最古の文字 甲骨文-こうこつぶん-<神の文字>
古代中国、夏(か)、殷(いん)の時代(前1500ごろ~前1050ごろ)になると、亀甲(きっこう)や牛・鹿などの骨に小刀で線画のような文字を刻んだ甲骨文が現れました。これらは、国で重要なこと、つまり戦争や狩猟や農事を占った記録です。甲骨文は、近年になってから発見されたので、書体の仲間には入っていません。
書体1 篆書-てんしょ- <皇帝の文字>
漢字のもっとも古い書体です。殷時代の青銅器には絵文字のようなものが刻まれました。これを金文(きんぶん)といいます。鋳物で型を取って作った文です。金文は次の西周・東周時代にも使われました。そして戦国時代を経て、やがて秦(しん)(前221~前206)が天下を統一すると、秦の始皇帝は自国の文字を中心にして、混乱していた書体を統一しました。統一以前の文字を大篆(籀文)とよぶのに対し、統一後の文字を秦篆(しんてん)または小篆(しょうてん)といいます。篆書としてもっとも完成した姿です。あらゆる制度を統一しようとした始皇帝は、度量衡(長さや重さの基準)で官製の原器をつくり、秤(はかり)に詔書を刻んで民間に配布しました。そのあとも漢代の器に書いた文や印章の文字に使われました。
篆書の構造の特色は、横画は水平に縦画は垂直に、筆意をあらわにせずに静かに書き、「皇」「天」などの文字は完全に左右相称で、正面を向いた形になるということです。また「分間布白(ぶんかんふはく)」といって、筆画と空間の配布をくふうして、どこにも狭苦しいところや広すぎるところがないよう(原則として等間隔に線を引くこと)に配慮しています。
この時代にはまだ紙はつくられていなかったので、帛(はく)(布)や竹・木(主に楊)に文書が記されまた。
この時代の篆書作品 石鼓(せっこ)文 『前』300~400
『泰山刻石(たいざんのこくせき)』 『前』219
『瑯邪台刻石(ろうやだいのこくせき)』 『前』219など
書体2 隷書-れいしょ-<役人の文字>
秦が滅びたのちの漢時代は、前漢(前202~後8)と後漢(ごかん)(25~220)に分かれますが、当初は秦時代の篆書がそのまま用いられていました。しかし、装飾的で複雑な篆書は、文書の作成に不便でしたので、簡素化された字が下級官吏の間で発明されました。これを隷書(れいしょ)といいます。(賤しい者が使う文字という意味)、やがて一般にもこれを使うようになり、正式書体として用いられました。初期のものを古隷(これい)といい、後漢の字形の整った字体を八分(はっぷん)といいいます。
漢時代、一般的には隷書が用いられましたが、印や鐘銘など厳かな書体を必要とするところにはまだ篆書が用いられていました。現在も印章には篆書が多く使われています。
前漢時代、紙はまだなく、木簡(もっかん)や竹簡(ちっかん)、帛書(はくしょ)に書かれていました。紙は後漢の初期に蔡倫(さいりん)によって発明されたと伝えられています。後漢時代の多くの美しい隷書の碑は、まず紙に書いてから石工が刻んだものと考えられています。
秦(しん)代までの篆書が縦長で、正面を向き、静かに無表情なのに対し、その篆書から生まれた隷書は、偏平な台形を右下に引っ張ったような形をとり、また筆画は「波勢」といううねりを帯びています。波勢はことに横画に顕著に働き、一字のうちのもっとも重要な一横画は大きくうねって右にはね出します。、これを「波発」といいいます。
今日でも、新聞の題字や看板などにしばしば用いられています。
この時代の隷書作品
作者不詳『礼器碑』156
同じく 『曹全碑』185
同じく 『張遷碑』186
同じく 木簡・竹簡など
書体3と4 草書と行書-そうしょとぎょうしょ-<人々の文字>
楷書(かいしょ)が崩れて行書となり、行書がさらに崩れて草書ができたと考えられがちですが、事実は違うようです。漢時代末には、隷書のなかで使用頻度の高い文字は徐々に単純化されて草書(そうしょ)が現れました。これを古草(こそう)といいます。古草から章草(しょうそう)が生まれました。この時代の草書は篆書・隷書の影響で、おもな字画や終わりの筆は下に続けず右にはね出すのが特徴でしたが、しだいに下の字画へ続けて流すようになり、連綿体(れんめんたい)が生まれました。
また、隷書の速書きから行書(ぎょうしょ)も生まれました。行書は漢の劉徳昇(りゅうとくしょう)の発明といわれています。これと前後して今日の楷書(かいしょ)も形成されました。この、隷書と行書・草書そして楷書は、変化が一方通行だったわけではなく、相互作用で、お互いの書体を、より書きやすく、造形的に美しい方向へ変化させていったようです。こうして漢時代末には篆・隷・草・行・楷の漢字の五体がほぼ出そろい、以後は現在まで字体の変化はありません。
これらの表現方法を集大成したのが東晋の王羲之(おうぎし)で、楷・行・草の三体の書を完成し、書聖と仰がれました。その影響は中国、日本を通じ、広く長く後世にまでおよびました。羲之の書として伝えられるものは、いずれも真蹟(しんせき)は伝わっていません。なぜかというと、唐の太宗皇帝(在位627~649)は書に対するなみなみならぬ情熱をもち、自身も『温泉銘』などで知られるような名手でしたが、王羲之の書を熱愛し、国中に命令を出して、羲之の真蹟を集め、写させました。なかでも永年求めていた『蘭亭序』を手に入れると、数多く写させ、真蹟は、死んだとき棺に入れて葬らせたといわれているからです。
この時代の行書作品
王羲之『蘭亭序(らんていじょ)』
王羲之『集字聖教序(しゅうじしょうぎょうのじょ)』
この時代の草書作品
王羲之『十七帖(じょう)』
王羲之『喪乱帖(そうらんじょう)』356
王羲之『孔侍中帖(こうじちゅうじょう)』
王献之『中秋帖(ちゅうしゅうじょう)』
草書と行書は、成立過程からもわかるとおり、普段書きの字です。ですから、早く書くための工夫がされています。隷書の横画が真横だったのに対して、5度くらい右上がりになり、一画一画が丸みを帯びてきます。草書と行書の違いは、字の省略の度合いと書く速さの違いです。歩くくらいの速さが行書、走るような速さが草書というふうに例えられます。速く書くために楷書とは筆順の違う字があるので注意が必要です。
書体5 楷書-かいしょ-<印刷の文字>
晋に続く南北朝(420~534)には仏教の影響で写経が盛んになり、楷書で美しく書かれた写経体が生まれました。また、北方に建国した北魏(ほくぎ)には、碑、磨崖(まがい)、墓誌(ぼし)など多くの石刻があます。ことに墓誌の類は、地上に建てず墓中に埋められたので、風化を免れました。
この時代の楷書作品
造像記
作者不詳『牛けつ造像記』495
朱義章『始平公造像記』498など
墓誌銘
作者不詳『美人董氏墓誌銘』597
作者不詳『蘇慈墓誌銘』603など
隋によって築かれた新文化は、唐(618~907)に受け継がれ、長い平和によって文学、芸術の花を開き、書道も黄金時代をむかえました。楷書の究極の形は、この時代のものです。唐代には、科挙(かきょ)(官吏採用試験)の科目の一つに書が取り入れられ、書道が政治家や官吏になるための必須(ひっす)の教養とされました。このころ、遣唐使によって日本にも書の名品が数多く伝わりました。
楷書は今まで一番見慣れた書体だと思います。隷書との大きな違いは、運筆が、必ず三過折(一、二、三のリズム)だということです。そして、横画は右上がりになります。
この時代の楷書作品2
楷書初唐の三大家
欧陽詢(おうようじゅん)(『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)』など)
虞世南(ぐせいなん)(『孔子廟堂(びょうどう)碑』など)
ちょ遂良(ちょすいりょう)(『雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうのじょ)』など)
唐の中期になると、こうした風潮に飽き足らず、新しい書風が生まれました。
この時代の楷書作品3
顔真卿(がんしんけい)(『顔氏家廟の碑』
今使われている明朝体活字の基になっている書体です。
日本の書体 かな<女性の文字>
中国から渡来した漢字は書写や記録に便利でしたが、日本語で情感や思想を表現するには、無理がありました。そこで、漢字の音(おん)だけを借用して一字一音式に国語を書き出すくふうがなされ、『万葉集』のような和歌を詠む場合に使いました。これを「万葉仮名(まんようがな)」といい、楷書で書かれたので真仮名(まがな)ともいいます。これを草書体で書いたものを草(そう)仮名といい、さらに大胆に書き崩したのを女手(おんなで)といいます。女手とは、この時代の男子は漢字を学ぶ必要から楷・行書を主としたので男手(おのこで)というのに対し、漢字の知識に乏しい女性専用文字という意味でしたが、実際には男性も使い、のちに平(ひら)仮名とよばれるようになりました。貴族社会の日常教養に不可欠のものとなり、書道にも革命をもたらしました。多くの能書家が出て競い合い、漢字と調和した、仮名書きの和様書道が完成しました。
平安前期の仮名の代表的作品
(伝紀貫之)『寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)』
(伝小野道風『継(つぎ)色紙』)
(伝藤原行成)『升(ます)色紙』
平安中期における『枕草子』『源氏物語』などの女性文学の隆盛は、平仮名の発達が一因をなすといわれています。そして、字体も平安時代以来ほとんど変わらぬままに現在に及んでいます。
平安中期から鎌倉前期まで、10世紀から13世紀ころまでに書かれた仮名書きの作品(多くは和歌集)を古筆(こひつ)とよんでいます。古筆のもとの形は、1冊の冊子本か1巻の巻物でしたが、のちに茶の湯が盛んになり、茶室の掛物に使われるようになって、これらの冊子や巻物は一紙、半紙に切断されて多くの断簡となり、「切(きれ)」といって諸家に愛蔵されました。 有名なものに
紀貫之、藤原公任(きんとう)、藤原行成、源兼行(かねゆき)、藤原伊房(これふさ)、藤原基俊(もととし)、藤原定信(さだのぶ)らが書いた、
『高野切(こうやぎれ)』(古今和歌集断簡)
『石山切(いしやまぎれ)』など
仮名書きの華麗な書風は料紙の工芸美を生み、染紙(そめがみ)、唐紙(からかみ)、雲紙(くもがみ)、墨流しなどの美しく加工した紙が用いられました。それらを、破り継ぎ、切り継ぎ、重ね継ぎなど精巧な継紙(つぎがみ)の技法を凝らして変化をつけます。こうした料紙の工芸美は仮名ばかりでなく、写経にまで及びました。
料紙の美しい書
20人ほどの能書家の分担執筆、いわゆる寄合書(よりあいがき)
『本願寺本三十六人集』1112ころ
装飾経
『平家納経(へいけのうきょう)』
『久能寺経(くのうじきょう)』
『扇面法華経(せんめんほけきょう)』
かなの特徴は、かなを構成する線がすべて円の一部だということです。それは、非常に大きな円の一部に当たる縦線・横線と小さな円を作る「の」「あ」「め」のような線に分けられます。縦書きは、これを縦方向に回転させながら書き進めていきます。ですから、これを横書きでやろうとすると、いわゆる丸文字になってしまいます。丸文字を芸術の域まで高めた人はまだいないと思うので、挑戦してみてください。