【校長室だより】

1. 令和6年度第1学期終業式 校長講話

投稿日時: 07/18 校長

 おはようございます。

 はじめに、先日の豪雨で被災された愛媛県の方々にお悔やみとお見舞いを申し上げます。いつ、何時、こうした災害に見舞われるかわからない時代です。今日明日中に関東地方でも梅雨明けが宣言されそうです。感性を磨き、常にアンテナを高くして、自分の命は自分で守る、熱中症対策を含め、危機管理を徹底させてください。

 さて、今日は庭園デザイナーで僧侶の 枡野 俊明(ますの しゅんみょう)さんのコラムから二つの禅語(禅宗の文献に書き記された言葉)を紹介します。枡野さんは、禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得ています。曹洞宗のお寺のご住職であり、多摩美術大学環境デザイン学科の教授でもあります。2006年には、雑誌の『ニューズウィーク』日本版で、「世界が尊敬する日本人100人」に選出されています。本校の図書館には枡野さんの本があるので、関心を持つ人がいたら読んでみてください。

  「人からよく見られたい、良い人だと思われたい。」という気持ちは誰もが持つ感情だと思います。そして、好意を寄せている人から好かれたいという私的な感情を持つことも、時としてあるでしょう。

 先週、野球部の応援に行って、選手たちの戦う姿を見て清々しく感じました。彼らは損得ではなく、チームの勝利のためだけに、臆することなくひたむきにプレーしたからこそ、私は心を惹きつけられたのだと感じました。つまり、「人からよく見られたい、好かれたい。」などという邪心を一切持たず、無心に戦う姿は魅力的であり、人を惹きつけるのだと思いました。

 一つ目の禅語は、「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)です。

 「いつでも、どこにいても、そこが道場であり、何をしていても修行になるのだ」という意味です。その心構えで、「一瞬一瞬を一所懸命に努めなさい」という意味です。一途に、一所懸命取り組んでいる人の姿を見て、好感を持つ人は多いと思います。

  よく見られたいという思いが強くなり過ぎて、ちょっと欲張って自分を“盛る”ことは、「自我」の現れと言えます。自分自身の存在や考え方に執着する心を「自我」といいます。リアルの人づきあいの中で自分を“盛る”のは、かえって自分を苦しめることになってしまうと思うのです。なぜなら「ありのままの自分」がいつまでたっても殻を破ることができないからです。人は、自身の未熟さを自覚し、それを改めようと努力することで成長します。自分を飾らず、ダメな部分も全てさらけ出し、ありのままの自分で人と接したいものです。

 二つ目の禅語は、「明歴々露堂々」(めいれきれきろどうどう)です。

 真理は探すものでも求めるものでもありません。すべてが、明らかに堂々とあらわれていることに気づきなさい、という意味です。多少自分を盛って人と接していても、あなたをよくわかっている人は、あなたのほんとうの姿をお見通しなのです。これから深くつきあっていきたいと思う相手なら、なおさら自分をさらけ出してください。自分を盛って人と接していると、いつまでも素の自分が出せず、よそよそしい関係になってしまうでしょう。ありのままの自分をさらけ出している人は親しみやすく、好感がもてると思います。自分が自分らしく生きることが「明歴々露堂々」です。また、それが生きる自信にもつながるのです。

 9月2日の始業式では、部活動やコンテスト、資格取得、進路活動等、様々なチャレンジを通して一回り成長し、自信に満ち溢れた皆さんにお会いできることを楽しみにしています。